鹿児島市吉野の帯迫鎮守(おびさこちんじゅ)神社のご紹介です。
安産のご利益で有名です。
ご自身や身近に出産のご予定がある方は参拝してみてはいかがでしょうか?
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アクセス
九州自動車道「薩摩吉田IC」から車で約11分の場所にあります。
下の写真は入口の前にある看板です。
鳥居が見えてきました!
こちらは駐車場側からの入り口です。
2台ほど車が駐車できるスペースがあります。
周りは私有地の駐車場なので参拝の際はご迷惑にならないよう注意しましょう。
鳥居
社殿が見えてきました!
境内は木々に囲まれていて、心地よいマイナスイオンにあふれています!
手水舎
素朴ですが、毎日誰かが掃除をされているようで、とてもきれいです。
社殿
一般の神社のような派手さはなく、木造の力強い印象のする社殿です。
祭神
天照皇大神(アマテラス)
天照皇大神は、天を照らす神、つまり太陽の神様です。
最初の夫婦神・イザナギとイザナミの3人の子どもとして生まれました。
神々の中で一番偉い神様で、現在まで続いている天皇家の祖先でもあります。
天高原(天の国)を治めていましたが、弟のスサノオが自分のもとで働いていた機織り娘を死なせてしまったことから心を痛め、岩穴(天岩戸)に隠れてしまいました。
その結果、大地を闇が覆い世の中がました。
神々は岩穴の前で踊り宴を開き、アマテラスが少し顔を出したところを、岩穴から引き出すと、この世に太陽が戻りました。
アマテラスが祭られている神社で有名なのは、伊勢神宮(三重県)です。
主なご利益としては、「国家安泰」「子孫繁栄」などがあります。
天児屋根命(アメノコヤネ)
アメノコヤネは、アマテラスが岩穴に隠れたとき、ほかの神様と一緒に宴を開いた神様です。
アマテラスの偉大さや美しさを褒めたたえて、アマテラスを岩穴から出すことに成功しました。
アメノコヤネの主なご利益としては、「子孫繁栄」「出世」などがあります。
神社の歴史
帯迫鎮守神社はいつ建てられたか不明ですが、薩摩藩主の島津家はこの神社を大切にしていました。
藩主がこの付近(吉野)に来るときは、地域住民がこの神社に集まって豊作を願ったという歴史があります。
島津歳久公(御石様)慰霊碑
帯迫鎮守神社の境内に、島津歳久(1537-1592年)の慰霊碑があります。
この島津歳久という人物は、どのような人だったのでしょうか?
島津歳久とは?
戦国時代。
島津歳久は、兄の島津義久・島津義弘、弟の島津家久とともに「島津4兄弟」と呼ばれ、九州のほとんどを領土にし、島津氏の領土を過去最大に広げました。
歳久は藩主の城と自分の領地を行き来するとき、この帯迫鎮守神社でよく休憩していたと伝えられています。
やがて、豊臣秀吉が九州征伐で薩摩藩に侵攻してくると、兄弟たちは降伏しても歳久だけは最後まで抵抗しました。
秀吉の朝鮮出兵に反対する反乱がおきたときも、反乱軍の中に島津歳久の家臣が大勢いたことから、豊臣秀吉は激怒し、歳久の兄・島津義久に歳久の首を差し出すように迫りました。
仕方なく義弘は歳久に追っ手を差し向けて、歳久を自害に追い込みました。
兄弟で殺し合わないといけないとは・・・。仕方のない時代とはいえ、悲しいことです。
自害の時、歳久は病気(痛風)のために刀を持つことができず、石で割腹しました。
「女性が出産するときに苦しい思いをするだろう。これからはその苦しみを救ってあげよう」と言って自害したことから、歳久は「御石様」と呼ばれるようになりました。
このことから「安産の神」としても広く信仰されています。
ちなみに、帯迫鎮守神社前の交差点は「大石様河」という名前がついていて、この神社が昔から地域で大切にされていることが伺えます。
島津歳久は歴代の島津氏が眠る福昌寺で眠っています。
なお、歳久が自害した場所(鹿児島市竜ヶ水)には、霊をとむらうために心岳寺(現在の平松神社)が建てられました。
西郷隆盛にも影響?
島津歳久の死から150年後。
幕末に幕府に逆らう者がことごとく処罰された事件がありました(安政の大獄)。
西郷隆盛と僧・月照は幕府の追っ手から逃れて京都から薩摩藩に逃げてきましたが、ついに追い詰められ、二人で錦江湾に身を投げました。
西郷隆盛は自分の覚悟として、月照に島津歳久の話を語ってから、島津歳久を祭る心岳寺に手を合わせて、夜の海に飛び込んだと伝えられています。
その死後から長い時を経て西郷隆盛の行動に影響を与えていることを考えると、島津歳久の偉大さがわかる気がしますね。
御朱印情報
社務所はありません。
各種参拝情報
住所
鹿児島市吉野町2593・2594
地図
近くのおススメベーカリー
ロビンフッド
地元で人気のコーヒーサンドが美味しいですよ!