鹿児島市荒田の天保山中学校の一角にある、島津斉彬が軍隊の訓練を指揮した場所(陣屋)跡の紹介です。
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島津斉彬公御陣屋跡
島津斉彬は島津家第28第当主です。
島津斉彬は1851年(嘉永4年)以降、この一帯(天保山調練場)で、洋式調練や砲術、騎兵、工兵などの訓練を行いました。
時代背景
島津斉彬の時代、欧米列強は清(当時の中国)を植民地化するなど、アジア進出してきました。
日本沿岸にも黒船が訪れるようになり、日本国内は「開国」か「攘夷(外国船を打ち払うこと)」かで揺れていました。
外国の文化に興味を示していた曾祖父・島津重豪の性格を受け継いだ島津斉彬は、西洋の文明を学び日本の富国強兵を行う必要を感じていました。
島津斉彬は集成館事業を行い、島津家の別荘だった仙巌園に工場群を造り、積極的に大砲や小銃を研究・製造しました。
錦江湾の海岸に砲台を設置し、異国の来襲にそなえ防備をすすめました。
同時に、島津斉彬は軍隊の訓練にも力を入れました。
現在の鹿児島市天保山を訓練場に定めると、斉彬自身が指揮を執り、大規模な訓練を行われました。
島津斉彬は他の大名と協力し、積極的に江戸幕府に干渉し、日本が一致団結して黒船の危機に対応するために、朝廷と幕府の協力を推し進めていました(公武合体運動)。
西郷隆盛や大久保利通は島津斉彬の手足となり、この運動に貢献しました。
突然の病死
しかし、1858年(安政5年)に江戸幕府で井伊直弼が大老になると、島津斉彬は将軍の跡継ぎ問題で井伊直弼と対立します。
島津斉彬たちは次期将軍に一橋慶喜を押していましたが、井伊直弼は大老の権力を使って徳川慶福(後の家茂)を将軍としました。
島津斉彬はこれに対し、薩摩藩の兵士5,000人を率いて幕政改革を行うため京都に向かうことを決意します。
このため、兵士の軍事訓練に一層励むようになりましたが、1858年(安政5年)7月6日、炎天下の中、終日、天保山陣屋訓練を行い、その夜に体調を崩し高熱に苦しみます。
島津斉彬は10日後の7月16日に死去しました。享年50歳でした。
西郷隆盛は島津斉彬の死を悲しみ、殉死しようとしたほどでした。
島津斉彬の死後、その遺言により、異母弟・島津久光の長男・島津忠義が第29代島津家当主として後を継ぎました。
島津斉彬公は照国神社(鹿児島市照国町)で祭られています。
島津斉彬公御陣屋跡の観光情報
アクセス
住所
鹿児島市下荒田2丁目32
地図
島津斉彬公が軍隊の演習を行った場所
近くのランチスポット
ざぼんラーメン
地元・鹿児島では代表的なラーメンの1つです!
近くの観光スポット
調所広郷の銅像
調所広郷は、島津家の跡継ぎ争(お由良騒動)では、島津斉彬ではなく異母弟・久光を次期藩主に推しました。