西郷隆盛の従弟・大山巌(おおやま いわお)誕生地の紹介です。
鹿児島市加治屋町にあります。ここで、大山巌は西郷隆盛・西郷従道らとともに育ちました。
CONTENTS
大山巌誕生地の石碑
鹿児島市加治屋町で、立派な石碑を発見しました!
石碑には「元帥公爵・大山巌誕生之地」と刻まれています。
この「大山巌」とは、いったいどんな偉人なのでしょうか?
大山巌の人生
生い立ち
大山巌は1842年(天保13年)10月10日に、鶴丸城(鹿児島城)の城下町、鹿児島市加治屋町で生まれました。
同じ加治屋町の出身者には西郷隆盛がいて、大山巌は西郷隆盛より14歳年下になります。
西郷隆盛は幼いころから大山巌を可愛がり、西郷隆盛のおかげで昇進も早かったです。
生麦事件
島津久光の行列が江戸から薩摩に帰る途中、薩摩藩士が大名行列を横切ったイギリス人を切り殺しました。(生麦事件)
1863年(文久3年)、イギリス艦隊が賠償金を求め、鹿児島湾(錦江湾)に来航しました。
大山巌は、弁天破止砲台(現在のいおワールドかごしま水族館付近)に配属されました。
イギリス艦隊を乗っ取るため、果物売りに化けてイギリスの軍艦「ユーラリアス」にも乗り込みましたが、失敗に終わります。
イギリス艦隊は五代友厚らが乗船していた蒸気船を拿捕し、薩摩藩はこれを盗賊行為とみなし、戦闘が始まりました。
薩摩藩の旧式の大砲とちがい、イギリス艦隊の最新式の大砲(アームストロング砲)は撃つ速度が何倍も速く、圧倒的な威力を誇りました。
大山巌は薩英戦争でのイギリスの軍事力に衝撃を受け、以後、砲術を学ぶようになります。
戊辰戦争では西郷隆盛の指揮のもと砲台長として大活躍しました。
1869年(明治2年)にはヨーロッパに渡り、4年間フランス語や砲術を勉強しました。
愛する兄・西郷隆盛との闘い
1877年の西南戦争では、西郷隆盛たち薩軍と戦い、田原坂の戦いや城山の戦いで活躍します。
陸軍では山県有朋に次ぐ地位を手に入れました。
しかし、西郷隆盛たちと戦ったことを気にして、一生ふるさと鹿児島に帰ることはありませんでした。
西郷隆盛の妻・イトに弔慰金を送りますが突き返され、自分の姉から泣きながら責められたと言われます。
その時以来、大山巌は口数が少ない寡黙な人になったそうです。
日露戦争では満州軍総司令官として参加し、初代の陸軍大臣にもなりました。
異例の年の差婚!?大山巌と山川捨松
大山巌と妻の捨松は、おしどり夫婦として有名でした。
1860年(安政7年)山川捨松は会津藩で生まれました。
幼名は「さき」でしたが、11歳のとき津田梅子らとともにアメリカ留学することになり、「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という母親の思いから「捨松」と改名しました。
大山巌は結婚披露宴で山川捨松に出会い、ひとめぼれをしてしまいます。
大山巌は薩摩弁の訛り(なまり)が激しく日本語での意思疎通は難しかったようですが、英語で話すとすんなりコミュニケーションがとれたようです。
国際派カップルですね!
捨松の出身地・会津藩にとって戊辰戦争で薩摩藩は敵だったことため、捨松の実家は最初こそ結婚に反対しましたが、大山巌の熱意によって次第に打ち解け、二人はデートを始めてからわずか3か月で結婚しました。
そのとき、大山巌は42歳でしたが、捨松はわずか24歳。年の差は18歳。
当時では親子ほどの年の差がありました。
大山巌の銅像
大山巌元帥の銅像は東京都千代田区北の丸公園内にあります。
第二次世界大戦後、GHQによって多くの軍人の銅像が破壊されましたが、大山巌の銅像だけは破壊を免れました。
GHQの総司令官だったマッカーサーが、自室に大山巌の肖像画を飾るほど、大山巌の大ファンだったからだと伝えられています。
大山巌の墓所は、栃木県那須市にあります。
大山巌誕生地の観光情報
アクセス
市電にのり「加治屋町」電停で下車し、徒歩5分。
住所
鹿児島市加治屋町
地図
大山巌
近くの観光スポット
村田新八誕生地
道路をはさんで、すぐ向かい側にあります。