鹿児島市加治屋町の鹿児島中央高校の校舎の片隅に、村田新八(むらた しんぱち)の生誕地があります。
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村田新八の生誕地
鹿児島市加治屋町は、西郷隆盛や大久保利通を始め、たくさんの偉人が育った場所として有名です。
鹿児島中央高校の片隅に村田新八の生誕地跡があります。
村田新八の歴史
村田新八は、1836年(天保7年)12月10日、鹿児島市加治屋町山之口馬場(現在の鹿児島中央高校付近)で生まれました。
なお、名前の「新八」とは通称で、正式な名前は「村田 経満(つねみつ)」です。
西郷隆盛の片腕
近所の西郷隆盛は1828年(文政10年)1月23日生まれなので、村田新八より8歳年上です。
村田新八は、西郷隆盛や大久保利通と同じ下級武士が住む加治屋町で生まれ育ちました。
当時の薩摩藩では、郷中教育(ごちゅうきょういく)といって、先生が生徒を教えるのではなく、同じ地域の先輩が後輩を教えるという教育システムを採用していました。
村田新八は幼いころから同じ郷中(下鍛冶屋町郷中)の西郷隆盛の指導を受け、西郷隆盛を兄のように慕っていました。
村田新八は成長すると身長は180センチメートルにもなりました。
当時の平均身長は155センチほどなので、かなり背が高かったことがうかがえます。
なお、西郷隆盛の身長は178センチメートルでした。二人が並んで歩くと、かなり迫力があったでしょうね!
第28第島津家当主・島津斉彬は下級武士だった西郷隆盛を抜擢し、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を将軍にするために活動させます。
しかし、島津斉彬の狙いどおりにはならず、徳川家茂が14代将軍となりました。
島津斉彬は徳川家茂を将軍にしたことについて抗議するため京都に行く準備をしますが、急死してしまいました。
島津斉彬の跡は島津忠義が島津家当主・薩摩藩主となります。
島津忠義の後見人となった島津久光(島津斉彬の異母弟)が、島津斉彬の代わりに京都に向かうことになりました。
1862年、西郷隆盛と村田新八はその先発隊として、山口県下関で待機するよう命令を受けました。
しかし、島津久光の挙兵の知らせを聞きつけた者たちが次々と京都や大坂に集まり倒幕運動を起こそうとしているという情報を得た西郷隆盛と村田新八は、島津久光に無断で京都に向かい、その者たちを抑えようとします。
それを知った島津久光は激怒しました。
村田新八は喜界島へ、西郷隆盛は徳之島へ(その後は沖永良部島へ)島流しされます。
村田新八は喜界島で2年間も過ごすことになりました。
1864年(元治元年)、大久保利通や小松帯刀たちの説得により赦免され、西郷隆盛は薩摩藩に戻ることができました。
西郷隆盛にとって村田新八は必ず傍にいてほしい存在だったのでしょう。
ここでも西郷隆盛は島津久光の許可を得ることなく、村田新八を無断で薩摩藩に連れ帰りました。
もし西郷隆盛がいなければ村田新八は一生を喜界島で過ごすことになったかもしれません。これによって、村田新八の西郷隆盛に対する忠義は更に厚くなりました。
その後、村田新八は西郷隆盛の片腕として、倒幕運動に貢献します。
新選組と斬り合いをしても負けないくらい、剣術の腕前も達者でした。
戊辰戦争では東北地方の戦いで大きな戦果を挙げました。
岩倉使節団に参加
1871年(明治4年)に岩倉使節団(総勢108人)に参加してヨーロッパを視察しました。
参加者のうち、薩摩藩出身者は大久保利通と村田新八だけでした。
この使節団の目的は、江戸幕府が欧米と結んだ不平等条約を改正することでしたが、日本より発達した欧米の国を学習し、日本の発展を目指すことも主な目的でした。
岩倉使節団が全員、燕尾服に新調しても、村田新八だけは服装ではなく中身が大事だとして、日本から持参した洋服を着ていたそうです。
大久保利通は村田新八を頼りにして、日本に帰国してからは自分の片腕として頑張ってほしいと考えていました。
村田新八は、旅先でアコーディオンを購入し、異国の曲を弾けるようになりました。
村田新八はこのアコーディオンがお気に入りで、西南戦争中も持ち歩いていました。
また、フランスのパリに滞在しているときはオペラ座によく通っていたそうです。
鹿児島へ帰郷
岩倉使節団がヨーロッパにいる間、日本政府では征韓論で激しく議論が交わされていました。
征韓論とは、武力によって朝鮮を開国させようという考えです。
当時の朝鮮は、昔の江戸幕府のように鎖国しており、日本政府の開国の要求を断り続けていました。
西郷隆盛は自らが使節になって、朝鮮におもむき、開国するよう説得することを申し出ます。
一度は意見がまとまりましたが、岩倉使節団が帰国すると、大久保利通や岩倉具視は反対し、使節の派遣は無期限の延期になってしまいます。
西郷隆盛は辞表を提出し鹿児島に帰り、西郷隆盛を慕う者たちも次々と後を追いました。
大久保利通は村田新八を引き留めましたが、村田新八は「大久保さんの意見だけではなく、西郷さんの意見も聞かねば」と大久保利通を振り切って鹿児島に帰りました。
そして鹿児島に帰った後、村田新八は東京に戻ることはできない旨の手紙を大久保利通に送りました。
大久保利通はその知らせを知ったとき、茫然としたと伝えられます。
きっと「一緒に欧米を視察した村田新八なら自分のそばに残ってくれるに違いない」と考えていたのでしょう。
村田新八は鹿児島に戻ると、西郷隆盛が創設した私学校で生徒たちの教育に励みました。
私学校は、篠原国幹が銃隊学校を監督し、村田新八が砲隊学校を監督しました。
1877年(明治10年)の西南戦争が勃発すると、薩軍の第2番大隊長として奮戦しました。
西南戦争では、シルクハットにフロックコートという格好で戦っていとも言われています。
西南戦争最大の戦い「田原坂の戦い」では、アメリカで留学経験を持つ長男・岩熊が戦死します。
薩軍は敗戦を重ね、最後は鹿児島市の城山に立てこもりました。
村田新八は西郷隆盛の命だけでも救えないか新政府軍に使者を出しましたが、西郷隆盛の決意は固く、城山総攻撃の前夜には、今まで大切にしてきたアコーディオンも燃やしたと伝えられています。
1877年9月24日、城山最後の戦いで、西郷隆盛の死を見届けた後、自刃して最後を迎えました。42歳という若さでした。
村田新八は南洲墓地(鹿児島市上竜尾町)で敬愛する西郷隆盛と共に眠っています。
村田新八は、下級武士という出身でありながら、美術や音楽を好み、和歌や漢詩を作る才能にも優れていました。
村田新八の死を知った勝海舟は次のように語ったとされます。
「村田新八は大久保利通に次ぐ素晴らしい人物だった。雄大な志を持っていたのに若くして死んでしまったのが惜しい」
村田新八誕生地の観光情報
営業時間
通年
住所
鹿児島市加治屋町10
地図
村田新八
近くのランチスポット
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ヒカルヤ