西郷隆盛と大久保利通の「座禅石」を訪ねて~鹿児島市城山~

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この記事は鹿児島地元人のララが書いています。

鹿児島市城山に明治維新を成し遂げた西郷隆盛や大久保利通などの英雄が若い頃に座禅を組んで修行したという伝説の石があります。

西郷隆盛や大久保利通の青春時代に想いを巡らせながら、あなたも彼らと同じ石の上で座禅を組んではいかがでしょうか?

 

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西郷・大久保座禅石へのアクセス

梅雨がまだ終わっていない7月の暑い日でした。

 

鹿児島中央駅から国道3号線を鹿児島北インターチェンジ方向に向かいます。

護国神社入口をから城山団地のほうへ200メートルほど坂を進み、左側に現れる住宅に挟まれた細い小道を登ると、西郷・大久保座禅石があります。

 

車が1台ぎりぎり入るほどの道幅です。

駐車場は無いのでご注意ください。

 

写真正面の坂を少し上ったところにあります。

西郷・大久保座禅石

 

この看板が目印です。

西郷大久保座禅石

座禅石公園の看板

 

座禅公園に到着

座禅石は、お墓と住宅に囲まれた小さな公園のなかにあります。

西郷大久保座禅石

 

おおっ、あれが座禅石か!

西郷大久保座禅石 西郷大久保座禅石

 

西郷どん・大久保さぁの修行の地

西郷隆盛や大久保利通は明治維新を成し遂げた英雄です。

彼らはいったいどんな青春時代を送っていたのでしょうか?

 

西郷隆盛が22歳、大久保利通が20歳の頃、次の藩主を巡って、お由良騒動(1850年)という争いが起こりました。

薩摩藩は島津斉彬派(兄)と島津久光派(弟)に分かれて対立しあったのです。

結果として、久光派が勝利し、斉彬派の家臣たちが次々と処罰を受けました。

西郷隆盛が師と仰いだ、赤山靱負(あかやま ゆきえ)も、その一人です。

 

西郷隆盛の父・吉兵衛は赤山靭負の御用人でしたが、切腹を命じられた赤山靱負の介錯を務めました。

父から血に染まった赤山の肌着を見せられた西郷隆盛は、島津斉彬を次の藩主にしたいと強く願うようになりました。

 

一方、大久保利通はお由良騒動で父と一緒に謹慎処分を受けることになり、以後、かなり貧しい生活を強いられることになりました。

 

西郷隆盛や大久保利通は黙々と仕事をするかたわら、仲間の若者たちと一緒に禅を学び、誓光(せいこう)寺で座禅を組んで修行していました。

明治維新という一大事業を成し遂げるための精神力は、きっとここで培われたのでしょう。

 

座禅石の傍らにある石碑。

西郷大久保座禅石

「無参禅師隠栖之地 南洲甲東参禅の處」と書かれています。

無参(むさん)禅師は、善光寺の住職で、島津家の菩提寺である福昌寺の住職も務めました。

西郷隆盛と大久保利通は無参禅師から禅の教えを受けたと言われます。

※石碑に刻まれている「南洲」とは西郷隆盛の雅号(本名以外の別名)で、「甲東」とは大久保利通の雅号です。

 

座禅石の大きさは幅2メートル、奥行き80センチほどです。

西郷大久保座禅石

 

揺れ動く藩政のなか、西郷隆盛や大久保利通たちは何を思い、座禅に打ち込んでいたのでしょう。

そのようなことに想いを巡らせながら、私と娘も座禅石に座らせていただきました。

座禅石

西郷隆盛や大久保利通の青春時代に想いを巡らせながら、あなたも彼らと同じ石の上で座禅を組んでみてはいかがでしょうか?

ひょっとしたら、何か見えてくるかもしれませんよ!

 

西郷・大久保座禅石の観光情報

アクセス

専用駐車場がありません。護国神社の近くなので、参拝した後に寄るといいかもです。

地図

西郷隆盛や大久保利通などが若い頃に座禅を組んで修行したという石!

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