鹿児島市の鶴丸城にある天璋院篤姫の銅像の紹介です。
CONTENTS
篤姫銅像
薩摩義士碑側の入口から鶴丸城(現在の黎明館)に入ると、すぐ左側に天璋院篤姫の銅像があります。
※黎明館では鹿児島の歴史が紹介されています。
まなざしに強い意志を感じます。
鹿児島から東京へ
篤姫は天保六年(1835年)、今泉島津家の姫として、現在の鹿児島市に生まれました。
18歳のときに島津家第28第当主・島津斉彬の養女となり、この鶴丸城(鹿児島城)で暮らすようになりました。
安政三年(1856年)、故郷の鹿児島を離れ江戸に向かい、第13代将軍徳川家定の御台所(みだいどころ=妻)になりました。
しかし、結婚して2年も経たないうちに、夫・家定は無くなってしまいます。
討幕運動
そのころ、討幕運動が盛んになっていました。
皮肉なことに、倒幕運動の先頭に立っていたのは、自分の故郷・薩摩藩。
そのリーダーとなっていたのは、西郷隆盛でした。
篤姫は幕府と薩摩藩の間で板挟みにあいながらも、戦争を回避するために力を尽くしました。
江戸無血開城
1868年、ついに官軍と幕府が衝突し戊辰戦争が起きます。
官軍が勝利し、江戸城に向かって進軍してきました。
将軍徳川慶喜は反抗する意思がないことを示すため、江戸城を離れて上野寛永寺に入ります。
一方、篤姫を中心とする女性たちは江戸城に残り続けました。
篤姫は西郷隆盛宛にに徳川家の存続を願う嘆願書を送っています。
篤姫像の後ろの屏風には、篤姫直筆の嘆願書の一部がコピーされています。
「一命にかけ是非~御頼申候事に候」と書かれています。
そして、西郷隆盛と勝海舟の話し合いが行われました。
その結果、江戸での戦争は回避され、寛永4年(1868年)4月11日江戸城は無血開城されます。
西郷隆盛にとって自分の才能を認めてくれた島津斉彬は、篤姫にとっては養父の存在。
同じ故郷の出身であり、同じの恩人(島津斉彬)を持つ西郷隆盛と篤姫の思いが、無血開城の一因になったのではないかと思います。
この意味で、篤姫が歴史にもたらした影響はとても大きいです。
篤姫は明治十六年(1883年)に脳溢血で亡くなるまで、ついに故郷・鹿児島の地に帰ってくることはありませんでした。
篤姫像制作のエピソード
この銅像を制作した中村晋也さんは、将軍に嫁いだころの若い姿ではなく、波乱万丈の人生を生き抜き、徳川家の存続に力を尽くし、その終焉を立派に見届けた姿を造りたいという思いを込めました。
まず、篤姫の墓所に参拝して制作の許可を得た後、生前の姿に関する文献資料や服装の情報を片っ端から集めました。
上の写真は篤姫の晩年のものですが、道服という衣装を着ています。
実際に徳川記念財団に行って、道服の素材感を確かめ、少し硬い感じを粘土で表現したそうです。
天璋院篤姫像の観光情報
アクセス
- バス…鹿児島中央駅からカゴシマシティビューに乗り、「薩摩義士碑前」で下車(約15分)。
- 市電…「天文館通」電停を下車し、徒歩で約15分。
地図
〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町7
近くの観光スポット
薩摩義士碑
木曽の治水工事で命を懸けた薩摩藩の義士たち。
中村晋也美術館
天璋院篤姫像や大久保利通像を作成した中村晋也氏の作品が紹介されています。