大門口砲台跡~薩英戦争で活躍した砲台跡~鹿児島市南林寺町

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この記事は鹿児島地元人のララが書いています。

1863年の薩英戦争で活躍した大門口砲台跡の紹介です。

薩摩藩は錦江湾沿岸に数多くの砲台を設置して、イギリス艦隊7隻を迎え撃ちました!

この大門口砲台はどのような砲台だったのでしょうか?

 

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大門口砲台跡

大門口砲台は、1853年(嘉永6年)に島津斉彬によって沿岸防備のために築かれた砲台です。

現在は、砲台跡に石碑が建っています。

 

石碑の前を県道216号線が通っていて、車が忙しく行き交っています。

 

この石碑の前で、どんな歴史が起こっていたのでしょうか?

 

薩英戦争

薩摩藩士が大名行列を横切ったイギリス人を切り殺した事件(生麦事件)ことをきっかけに、イギリスは薩摩藩に賠償金を求めましたが、薩摩はこれを拒否。

1863年(文久3年)7月2日、イギリス艦隊7席が鹿児島湾(錦江湾)に侵入し、薩英戦争が起こります。

薩英戦争の写真

 

大門口砲台は鹿児島城下の南側を守る重要な砲台でした。

 

大門口砲台には、8門の大砲(36ポンド爆砲3門、20ドイム臼砲1門、野戦砲4門)が備えられ、イギリス艦隊と激しい攻防戦を繰り広げました。

キスト砲架という新型の砲架で、横向きの移動が従来の四輪砲架より容易であり、移動する軍艦を追尾しながら砲撃することができたので、イギリス艦隊にとって厄介な存在だったようです。

 

アームストロング砲(出典wikipedia)

 

イギリス艦隊は、当時最新だったアームストロング砲を装備していましたが、荒天のため十分な威力を発揮できませんでした。

2日に渡る戦いで、薩摩藩の大砲は旧式だったもののよく戦い、イギリス艦隊に大きな損害を与えました。

しかし、薩摩藩の砲台の被害も大きく、わずか3時間の戦闘で、市街地の10分の1が焼けてしまいました。

 

イギリス艦隊の威力を身をもって知らされた薩摩藩は、薩英戦争後は西洋技術を学ぶ必要性を痛感しました。

そして、1865年、薩摩藩は、五代友厚らの外交使節団と一緒に、洋学校「開成所」で学ばせた留学生たちを、ひそかにイギリスに派遣しました。

 

大門口砲台跡の観光情報

アクセス

市電「いづろ」電停で下車し、徒歩約10分。

住所

鹿児島市南林寺町27

地図

 

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