1863年の薩英戦争で活躍した天保山砲台跡の紹介です。
天保山の名前の由来
鹿児島市天保山(てんぽざん)は甲突川の河口にあります。
天保山は海でしたが、甲突川では昔から何度も洪水が発生し、その度に土砂が川底に貯まっていました。
川底から取り除いた砂を捨てていた場所が、いつのまにか砂の山ができていました。
江戸後期の天保年間(1830~1843年)に、この人工の砂山は時代の名前をとって「天保山」と名付けられました。
天保山砲台の誕生
島津家代27代当主・斉興(なりおき)は、モリソン号事件(日本人の漂流民を返そうとしたアメリカ船を打ち払った事件)をきっかけに、外国の来襲の可能性を考え、1850年、天保山に砲台を造りました。
さらには、家来を長崎に派遣して砲術を学ばせ、砲術館も作りました。
後を継いだ島津斉彬は、鹿児島湾内での戦いを想定して、鹿児島湾内沿岸に新波止砲台や大門口砲台などを造りました。
大砲を集成館(現在の仙巌園)で造り海防を整えました。天保山砲台には80ポンド爆砲をはじめ、11門の大砲が備えられました。
また、島津斉彬は天保山で城下の藩士全体の訓練を自ら見回り、洋式の軍隊の訓練にも熱心に取り組みました。
現在の天保山砲台跡には、当時の石垣が残っています。
薩英戦争
1863年(文久3年)、薩摩藩士がイギリス人を切り殺した生麦事件をきっかけに、薩英戦争が発生しました。
賠償金を求めるためイギリス艦隊7隻が鹿児島湾(錦江湾)に侵入し、交渉を有利にすすめるために薩摩藩の船を奪いました。
これを盗賊行為とみなした薩摩藩は、大久保利通を天保山砲台に追討使として派遣し、天保山砲台が最初に砲撃を開始しました。
薩摩藩の砲撃はイギリス艦隊司令官の乗船していた旗艦ユーラリアス号に命中。
艦長を含め9人の戦死という大損害を与えました。
しかし、反撃に転じたイギリス艦隊のアームストロング砲の威力はすさまじく、天保山砲台の火薬庫は爆発し大損害を受けます。
薩摩藩の砲台は破壊され、市街地の10分の1が焼けてしまいました。
天保山砲台跡の観光情報
アクセス
JR鹿児島中央駅から車で約15分。
住所
鹿児島市天保山町14−15
地図
薩英戦争
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