新波止砲台跡~薩英戦争で活躍した砲台~鹿児島市本港新町

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この記事は鹿児島地元人のララが書いています。

薩英戦争で活躍した新波止(しんはと)砲台跡のご紹介です。

 

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新波止砲台跡の歴史

1824年、鹿児島県の南にある宝島にイギリス人が上陸し、薩摩藩士と銃撃戦が発生する事件が起こりました。

さらに、1837年、アメリカのモリソン号が日本の漂流民を返すために鹿児島にやってきましたが、薩摩藩は異国船打払令により砲撃して追い返しました。

第27代島津家当主・斉興は1840年代に外洋の防備を意識して砲台の建設を始め、砲術館を建てました。

 

次の島津家当主・斉彬は鹿児島湾(錦江湾)にも台場を建設しました。

1853年(嘉永6年)には大門口砲台・祇園之洲砲台、翌年には新波止砲台、弁天砲台が建築され、集成館事業で作られた大砲がならべられました。

 

新波止砲台は、鶴丸城(鹿児島城)の正面に位置し、鹿児島城下を守るための主力砲台でした。

この新波止砲台では、150ポンド砲1門、80ポンド砲1門はじめ11門が装備されました。

この150ポンド砲のレプリカ(複製)が、仙巌園(磯庭園)の入口はいってすぐの場所にあります。

150ポンド砲

 

1862年、江戸から薩摩藩に帰る途中だった島津久光の大名行列を乱したイギリス人を、薩摩藩士が殺傷する事件(生麦事件)が発生します。

翌年1863年、イギリス艦隊が賠償金の支払いを求めて薩英戦争が発生しました。

新波止砲台からの砲撃はイギリス艦隊に大きな損害を与えましたが、この砲台もことごとく破壊されました。

新波止砲台

薩英戦争戦闘図

 

鶴丸城(鹿児島城)の石垣には、薩英戦争の弾痕が残っています。

薩英戦争の弾痕

 

新波止砲台跡の写真

現在、新波止砲台の跡には、当時の石垣が残っています。

砲台の跡の近くには、いおワールドかごしま水族館があります。

新波止砲台跡

この石垣に使用されている岩は「たんたど石」と呼ばれています。

正式には「溶結凝灰岩」という名前で、花崗岩などの岩と比べて加工しやすいという特徴があります。

なお、仙巌園(磯庭園)の反射炉の基盤や石灯籠に使用されている岩も「たんたど石」です。

新波止砲台跡

 

新波止砲台跡は公園として、鹿児島市民の憩いの広場になっています。

新波止砲台跡

新波止砲台跡

 

「明治天皇行幸所船形台場」の碑が建っています。

1872年(明治5年)、明治天皇はこの場所で鹿児島に上陸され、鶴丸城(鹿児島城)の島津久光に会われた後、仙巌園の工場群を見学されています。

新波止砲台跡

新波止砲台跡

 

新波止砲台の前からは、桜島に渡るための桜島フェリーが出ています。

桜島フェリー

 

新波止砲台跡の観光情報

アクセス

住所

鹿児島市本港新町

地図

薩英戦争で活躍した砲台

 

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