指宿市今和泉に激動の場末を生きた「天璋院篤姫」が幼少期を過ごした場所です。
ここからは雄大な桜島を眺めることができます。
歴史に関心のある方は、ぜひ訪問してはいかがでしょうか?
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今和泉島津家
今和泉島津家は、延享元年(1744年)に、第五代薩摩藩主・島津継豊(島津家22代)が、弟の島津忠郷に、長く途絶えていた島津家を再興させた家です。
今和泉島津家は、重富家・加治木家・垂水家とともに、「一門家」と呼ばれる最高の家柄でした。
一門家は藩主の代わりを務めたり、参勤交代から帰ってきた藩主を出迎えに行くなどの役割が与えられていました。
徳川将軍に謁見(会うこと)ができたのも、島津本家と一門家のみだったようです。
篤姫は、今和泉島津家第五代・忠剛の娘として1835年12月19日に鹿児島城下で生まれました。
今和泉島津家の領地と屋敷
今和泉島津家は、現在の指宿市(岩本、小牧、西方の一部、池田、開聞仙田の一部)を領地としていました。
後には、佐多、伊作、串良にも飛び地を持っていたようです。
これらの領地は合わせて1万3千石以上にもなります。
また、現在の今和泉小学校と鹿児島市大竜町(大竜小学校の西隣辺り)に、それぞれ屋敷をもっていました。
大竜町の屋敷は4,700坪、今和泉の屋敷は4,300坪もあったとされています。
現在、今和泉の屋敷はすでに存在していませんが、石垣や手水鉢(手を洗う場所)などが残っています。
南西に300メートルほど行った場所には、今和泉島津家の墓地があります。
将軍の御台所に
嘉永3年(1850年)の秋、老女比丘尼(びくに)から藩主・島津斉彬に問い合わせがありました。
「年頃の娘はいないだろうか?」
第13代徳川将軍・家定の二人目の正室が亡くなったすぐ後のことです。
なぜ島津家に問い合わせがあったのでしょう?
第11将軍・家斉の正室は、島津重豪(しげひで)の娘・茂姫で、子どもがたくさん生まれ長寿でした。島津家から正室を招けば、家定も同じく子宝にめぐまれるのではないかと期待されたのです。
ところが斉彬には娘がいなかったため、一門家である今和泉島津家の於一(おかつ、後の篤姫)が選ばれたのです。
嘉永6年(1853年)、於一は名前を「篤姫」と改め、斉彬の養女となります。
嫁入りの資金を用意するにあたっては、薩摩藩の財政再建にも貢献した海運業第八代・濱﨑大平次が大きな役割を果たしました。
婚礼自体は、ペリーの黒船来航や安政の大地震で延期されてしまいましたが、安政3年(1856年)に、家定の正室となりました。
幼少篤姫の像
篤姫の銅像が今和泉島津邸跡前の海岸にたっています。
銅像はとても利口そうな顔立ちに女の子です。
桜島をバックに撮影。
於一の像の場所からは、桜島がよく見えます。
今和泉島津家別邸跡の観光情報
アクセス
鹿児島市内から車で約50分
JR今和泉駅から徒歩約10分
地図
天璋院篤姫が幼少期を過ごした場所
近くのランチスポット
古民家カフェ「梅里」
お米がとってもおいしいです♪
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