吉野開墾社跡(南洲翁開墾地碑)鹿児島市吉野~島津斉彬から西郷隆盛へ受け継がれた想い

スポンサーリンク

この記事は鹿児島地元人のララが書いています。

鹿児島市吉野にある西郷隆盛が開墾に励んだ場所のご紹介です。

世界遺産「寺山炭窪跡」のすぐ近くにあります。

西郷隆盛はどのような思いで、ここの土地を開墾していたのでしょうか?

 

スポンサーリンク

南洲翁開墾地碑

鹿児島市吉野の世界遺産「寺山炭窪跡」に向かう山道の途中、長い階段を見つけました!

階段の先には何やら石碑が建っているようです。

階段を登ってみましょう!

南洲翁開墾碑

大きな石碑が建っていました!

寺山炭窪跡

石碑に記された題字は東郷平八郎によって書かれたものです。

力強い字で「南洲翁開墾地遺跡碑」と刻まれています。

実はこの場所、鹿児島の英雄・西郷隆盛ゆかりの史跡なのです。^^

 

どんな史跡なの?

1873年、征韓論に敗れた西郷隆盛は、2年後の1875年にこの地に吉野開墾社を設立しました。

そして、薩摩藩の牧場があった場所を鹿児島県から払い下げてもらい、150人の生徒と一緒に開墾しました。

39ヘクタール(1ヘクタール=縦100m×横100m)もの広い土地が開墾され、米、アワ、サツマイモ、桑、茶などが栽培されていました。

 

開墾作業は順調だったものの、西南戦争(1877年)の勃発により、開墾作業は中断してしまいました。

西郷隆盛たちの耕した田畑は今はどこへやら・・・。

当時の田畑は見る影もなく、今は背の高い木々がうっそうとしげる森になっています。

「兵(つわもの)どもが夢の跡」。松尾芭蕉が平泉(岩手県)にて詠んだ俳句が頭をかすめました。

 

下の写真は、西郷隆盛たちの開墾した土地を潤していた水源跡です。今でも水が静かに湧き出ています。

寺山炭窪跡

 

農地を開墾した理由

西郷隆盛は、なぜ開墾に取り組もうとしたのでしょうか?

第28代島津家当主・島津斉彬は、下級武士だった西郷隆盛を見出した名君として知られています。

島津斉彬は、日本の近代化の取り組みの中で、特に農業や開墾を重視していました。

国の基本は農業であり、領民に農業を勧めることが政治の基本だと考えていました。

西郷隆盛たちが農地の開墾作業に取り組んだのは、近代的な日本を作るためという島津斉彬の意思を継いだからだともいえます。

 

現代の日本では農作物は輸入に頼っています。

輸入品のほうが国産品より確かに安く入手しやすいのですが、いざ海外で戦争や災害が起きて輸入品が入ってこなくなったら大変です。

そう考えると、日本という国が強くあるためには、斉彬公の考えも一理あるなと思います。

 

開墾作業者の一日

この石碑の前には寺山私学校という建物がありました。

ここで、西郷隆盛や生徒たちはどのような暮らしをしていたのでしょうか?

 

開墾地に向かう者たちは、朝8時になると宿舎を出発し、ナタ、鎌、クワなどの道具を使って、荒地の草を払ったり、次を掘り起こしたりして開墾を行いました。

西郷隆盛も自らクワをふるって開墾に励みました!

一般的な「偉い人」はふんぞり返って監督業に専念するイメージがありますが、自分から率先して取り組むところに西郷隆盛の魅力を感じますね。

「あの人はリーダーなのに率先して頑張ってる。俺もがんばろう!」という気持ちになれます。^^

 

一方、宿舎に残る者たちは皆のために炊事や掃除を行い、開墾作業員の生活を支えました。

作業員が午後3~4時くらいに宿舎に帰ってくると、宿舎の2階で勉学や読書に励みました。

時には昼間にウサギ狩りやイノシシ狩りが行われたり、夜には集団討論も行われたようです。

 

吉野開墾地と西郷隆盛

西郷隆盛は鹿児島市武の屋敷から、熱心に吉野開墾地に足を運びました。

屋敷から吉野開墾地までは、約13キロメートルもあります。

西郷隆盛は、吉野開墾者と一緒に食事もとり、夜の討論会にも参加していたようです。

 

西郷隆盛の従弟で大山巌という人物がいました。

西郷隆盛と同じく、明治政府で重要な役割を担っていた人です。

大山巌は西郷隆盛に中央政府へ戻ってきてほしい思いがあり、そのきっかけとして欧州視察に西郷隆盛を誘う内容の手紙を送りました。

西郷隆盛の返信の内容は、大山の誘いを辞退する内容でしたが、この開墾地で汗水を流して農作業をすることを楽しそうに語っています。

 

また、西郷隆盛が開墾地から武屋敷に帰る途中、馬にサツマイモを二俵背負わせていたところ、途中で馬が道の下の畑に落ちてしまいました。

馬はサツマイモの俵が重くて起き上がれず、西郷隆盛も途方にくれていたところ、近くを通りかかった人が馬を引き上げてくれました。

西郷隆盛は「馬を扱うのが下手なもので」と笑ってお礼を言ったそうです。

鹿児島市吉野には、このような西郷隆盛の意外な一面を見せた場所の史跡もありますよ。^^

 

南洲翁開墾地遺跡碑の観光情報

アクセス

バスで行くには交通が不便なので車でいくのがオススメです。

車で「吉野ふれあい公園」に停めて、案内板に従い、約700mの山道をてくてく歩いていきます。

マイナスイオンたっぷりの山の中をあるくのは気持ちよいです。^^

住所

鹿児島市吉野町

地図

西郷隆盛たちが開墾に励んだ場所

 

近くの観光スポット

寺山炭窪跡

島津斉彬が集成館事業を行うために、製鉄の燃料となる石炭を造った施設の跡地です。

私学校跡

西郷隆盛が鹿児島の士族たちをまとめるために設立した学校です。

タイトルとURLをコピーしました