鹿児島市加治屋町の鹿児島中央高校の校舎の南側に、井上良馨(いのうえよしか)の生誕地があります。
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井上良馨の生誕地
鹿児島市加治屋町は、西郷隆盛や大久保利通を始め、たくさんの偉人が育った場所として有名です。
鹿児島中央高校の南側に井上良馨の生誕地跡があります。
井上良薫の歴史
井上良馨は、江戸時代末期の1845年12月1日に鹿児島市加治屋町で生まれました。
西郷隆盛は1828年生まれなので、西郷隆盛より17歳年下です。
同じ町(下加治屋町郷中)で育った西郷隆盛は、井上良馨にとって、あこがれの存在だったのかもしれません。
1862年に薩摩藩主・島津家の大名行列を横切ったイギリス人を、薩摩の武士が殺傷した事件(生麦事件)が発生しました。
翌年1863年、報復のためにイギリス艦隊7隻が鹿児島の錦江湾に侵入し、薩摩藩はこれを大砲で迎え撃ちました。これが薩英戦争です。
井上良馨は19歳で薩英戦争に参加し、初陣を飾りました。
井上良馨は、桜島の沖に浮かぶ沖小島(おこがしま)の砲台に配置されました。
薩英戦争によって砲台のすべてが破壊され、鹿児島市街地の大部分が焼けました。
井上良馨はイギリス艦隊の砲撃で4メートル吹き飛び、足を貫通する大けがをしました。
そのとき持っていた刀剣は衝撃でグニャグニャに曲がったと伝えられています。
このようなすさまじい恐怖経験にもかかわらず、井上良馨はイギリス艦隊を恐れるどころか、その強さに魅了され、陸軍から海軍に転身しました。
明治時代になり、1872年(明治5年)には軍艦「春日」の艦長となりました。
西郷隆盛が征韓論に敗れ鹿児島に帰ると、西郷隆盛を慕う多くの軍人が辞職して鹿児島に帰りましたが、井上良馨は「春日」艦長に留まりました。
1875年(明治8年)、当時の朝鮮は鎖国をしていました。
井上良馨は軍艦「雲揚」の艦長として、朝鮮との戦闘(江華島事件)で勝利し、その結果、朝鮮は日本の要求で開国することになりました。
この後、井上良馨は日本製として初めての軍艦「清輝」の艦長になりました。
1877年(明治10年)、西郷隆盛率いる薩軍が西南戦争を起こすと、井上良馨は西郷隆盛の政治的思想に共鳴しつつも、西郷隆盛と戦う決意をします。
西南戦争で薩軍と戦ったのは主に陸軍で、井上良馨は海軍として輸送と洋上からの砲撃を行いました。
同じ故郷の者たちと戦うのは、きっと精神的に辛かったと思います。
1878年(明治11年)、井上良馨は日本海軍の艦長として初めてヨーロッパに渡航することに成功しました。
日清戦争(1894年)と日露戦争(1904-1905年)のときは、佐世保、横須賀、呉などの司令長官を歴任しました。
井上良馨はその生涯にわたって鹿児島弁を使い続けたと伝えられています。
1929年に亡くなるとき、「沖小島がよく見えるところへ」と遺言を残しました。
その言葉のとおり、井上良薫のお墓は沖小島の見える鹿児島市郡元の高台にあります。
なお、錦江湾よりみちクルーズに参加すると、この沖小島を間近で見ることができますよ。^^
偉大な日本海軍の軍人・井上良馨の人生の転機となった沖小島を近くで見てみてはいかがでしょうか?
井上良馨誕生地の観光情報
営業時間
通年
住所
鹿児島市加治屋町
地図
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