西郷隆盛洞窟~西南戦争最後の激戦地「城山」での最後の5日間~

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この記事は鹿児島地元人のララが書いています。

西南戦争は1877年に起こった日本最後の内戦です。

薩軍のリーダーであった西郷隆盛が、西南戦争の最後の5日間を過ごしたという洞窟を訪ねました。

ガイドさんの説明もまとめましたので、ぜひこの記事を一読してから西郷隆盛洞窟跡を訪問してみてください!

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西南戦争の経緯

西南戦争は1877年に起こった日本最後の内戦です。

「西郷隆盛洞窟」を見学するとき、鹿児島まち歩きガイドさんが西南戦争について概略を説明してくださいました。

その日のガイド説明のうち、特に熱意がはいっている説明だったので、少し詳しく書きます。

征韓論

江戸時代まで朝鮮と日本は国交がありましたが、明治時代になってから朝鮮は鎖国をしていました。

明治の新政府は朝鮮に国交を呼びかけましたが、朝鮮では日本の属国になることを恐れる声が強まり、排日運動が発生します。

そして、朝鮮に滞在する日本人が危険に脅かされるようになりました。

 

政府内では、板垣退助が軍隊を派遣しようと主張します。

一方、西郷隆盛は自分が使節になって、朝鮮を説得しにいくと主張しました。

多くの政府の重鎮は西郷隆盛に賛成しました。

余談ですが、西郷隆盛は単身1人で敵地に乗り込み、その人徳で相手を説得する達人なのかもしれません。

江戸城無血開城において、勝海舟と対談するときも、自ら江戸に乗り込みました。

自らの危険を顧みず、世の中ために行動する点が、かっこいいですね!

 

しかし、岩倉具視や大久保利通らは西郷隆盛が殺されてしまうことを恐れて反対します。

明治天皇は岩倉たちの考えを採用することに決めたため、西郷隆盛や板垣退助は一斉に辞職します。

西郷隆盛が鹿児島に帰るときは、なんと300人以上が西郷隆盛を慕い、一緒に鹿児島に帰ったそうです。

 

西郷隆盛が鹿児島に帰ると、日本各地で士族の反乱が発生します。

江藤新平らが佐賀の乱を起こしますが、圧倒的な物量を持つ新政府軍に敗れてしまいます。

(江藤新平は佐賀の乱の途中で佐賀を離れ、鰻池で療養中の西郷隆盛に助力を求めました。)

しかし、西郷隆盛が動くことはありませんでした。

 

西南戦争の始まり

新政府にとって、カリスマ性を持つ西郷隆盛と、日本一強い薩摩士族は脅威でした。

警視庁の川路利良は20人ほどスパイを薩摩に送ります。

西郷隆盛を慕う私学校の生徒がスパイを捕らえて尋問すると、スパイは「坊主(西郷隆盛)を『シサツ』せよ」と命令されたと告白します。

 

この『シサツ』という言葉が『視察』という意味だったのか『刺殺』という意味だったのか…。

今となっては不明です。

しかし、私学校の生徒は「西郷隆盛を『刺殺』せよ」という風に解釈しました。

 

薩摩藩の武器庫は明治時代から国のものになっていましたが、ある日の夜、政府の役人はこっそり運び出そうとしました。

西郷隆盛と薩摩士族のいる薩摩に武器を置いておくのは危険と考えたのでしょう。

これを私学校の生徒が襲います。

 

このとき、西郷隆盛は根占でウサギ狩りを楽しんでいましたが、この知らせを聞いて「ちょっ、しもた!(しまった!)」と言ったそうです。

西郷隆盛が急ぎ鹿児島市に戻ると、私学校では今後の方針いついて話し合いが行われました。

幹部たちによる討議の結果、大軍で東京に押しかけ「政府が西郷隆盛を暗殺する意図があったのか」を問いただそうということになりました。

西郷隆盛は「おはんらにやった命」と言い、幹部たちに命を預け、ここに西南戦争の火ぶたが切られました。

 

西郷隆盛の率いる薩軍は九州を北上しました。

西郷隆盛は元陸軍大将、幹部の桐野利秋は元陸軍少将ということもあり、途中の熊本鎮台(熊本市)は抵抗しないだろうと考えていました。

また、熊本鎮台の兵隊は一般庶民出身(元農民や元商人)なので、兵隊として甘く見積もっていたのかもしれません。

薩軍の予想とは違い、熊本鎮台は近代兵器で対抗してきたため、旧式の武器しかなかった薩軍は苦戦を強いられます。

 

熊本で最も激しい戦闘が行われたのが熊本市北部にある「田原坂(たばるざか)」の戦いです。

この戦いのときは非常に激しい雨が降りました。

薩軍の旧式の銃は雨が降ると濡れて使えなくなり、木綿の服は雨を吸って重くなり、草鞋は切れてしまいました。

新政府軍の最新式銃は雨に強く、制服は雨天でも動きやすく靴も丈夫です。

 

薩軍は熊本県南部の人吉市まで退却し、ここで2年かけて軍隊を立て直そうとします。

ところが、次々と押し寄せる新政府軍によって、わずか1か月も持ちこたえることができませんでした。

 

薩軍は宮崎県の北部の「和田峠」に追い詰められます。

既に軍隊は3,000人ほどまで減っていましたが、士気を鼓舞するため西郷隆盛は、この戦いで初めて陣頭指揮をします。

しかし新政府軍の最新武器にはかなわず薩軍は敗走します。

西郷隆盛は軍服を焼き、薩軍をいったん解散しました。

 

最後の戦い(城山)

西郷隆盛と西郷を慕う者たちは、険しい九州山地を越えて、9月1日に鹿児島に帰ってきました。

鹿児島を守る新政府軍はわずか300人ほどだったので、西郷隆盛たちは鹿児島市をすぐ占領します。

各地から続々と新政府軍が集まり、西郷隆盛たちは城山に立て籠りました。

 

城山を取り囲む新政府軍の中には、鹿児島県出身で、西郷隆盛の親戚でもある川村純義がいました。

川村純義(出典: wikipedia)

 

一部の幹部たちが話し合い、戦争を始めた理由を伝えるために、新政府軍の川村純義に2人の軍使が送られます。

戦争の理由を伝えるだけではなく、西郷隆盛の助命を嘆願するのも目的でした。

川村純義は軍使1人を人質として残し、もう1人を西郷隆盛の元に返し、西郷隆盛自身が来て伝えるべきだと伝えます。

しかし、西郷隆盛はこの降伏の勧めを無視しました。

 

西郷隆盛洞窟

西郷隆盛たちは城山の戦いの最後の5日間をこの洞窟で過ごしました。

西郷隆盛洞窟

この洞窟で西郷隆盛は何を想い、最後の決戦に臨んだのでしょうか・・・。

西郷洞窟

洞窟自体は奥行きのない浅い穴です。

大人が4~5人入るのがやっとの大きさです。

実際は洞窟は11個所あったと記録されています。

現在の洞窟の奥行きは2メートル程度ですが、西南戦争時は4メートルほどあったようです。

西郷隆盛や上位の幹部は個室として1つずつ洞窟を使用し、下位の者は複数人でシェアしていました。

1974年(昭和49年)まで放っておかれたため、洞窟の風化が進んでしまいました。

今では2個所しか洞窟が残っていません。

 

新政府軍により城山総攻撃の前夜。このときだけは、今まで響いていた大砲の音は静まり返っていたといいます。

薩軍は残った食料やお酒を全て食べて、ささやかな宴を開きました。

城山を何重にも取り巻く政府軍から、どこからともなく、2曲の音楽が流れてきました。

 

ショパンの「葬送行進曲」

葬送行進曲とはお葬式で魂を見送るときに演奏される曲です。

明日の総攻撃でほぼ間違いなく死ぬことが決まっている西郷隆盛たちに捧げた曲だったのでしょうか。

 

ヘンデルの「マカベウスのユダ」

運動会の表彰式などでよく演奏される曲です。

西郷隆盛は日本のために数えきれないくらいの素晴らしい功績を残しました。

西南戦争では九州各地を転戦しましたが、最後は故郷の鹿児島に帰ってきました!

新政府軍は、薩摩藩出身者も多く、敵軍ながらも西郷隆盛を尊敬している者が多かったのではないでしょうか。

この曲を演奏することで、西郷隆盛の業績を称え、敬意を払おうとしたのかもしれません。

 

翌朝朝4時。新政府軍の総攻撃が始まります!

次々と倒れていく薩軍兵士たち。

西郷隆盛はここから300メートルほど下った場所(西郷隆盛終焉の地)で自決しました。

西郷隆盛終焉の地は西郷隆盛洞窟から歩いて10分ほど坂を下った場所にあります。

西郷隆盛洞窟の動画

 

西郷隆盛洞窟の観光情報

アクセス

  • バス…カゴシマシティビューで「西郷洞窟」で下車。
  • 車…無料駐車場あり。

営業時間

年中無休

住所

鹿児島市城山町19

地図

西南戦争の城山の決戦で、西郷隆盛が過ごした洞窟

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近くの観光スポット

城山長寿泉

西郷隆盛洞窟の道路を挟んで向かい側に「城山長寿泉」という天然温泉があります。

城山公園展望台

西郷隆盛が最後に見た景色か。

西郷隆盛終焉の地

西郷隆盛が別府晋介の介錯によって命を絶った場所。