鹿児島市照国にある史跡「探勝園」のご紹介です。
照国神社のすぐ横にあり、そこはかつて薩摩藩を治めていた島津氏の居城・鶴丸城の「二の丸」があった場所です。
幕末・明治初期の歴史に興味のある方におすすめな観光スポットです。
この探勝園の見どころを3つご紹介しますね!
CONTENTS
探勝園の歴史
探勝園は、島津家第25代当主・島津重豪(しげひさ)公のときに作られました。
最初は「千秋園」という名前でした。
第27代当主・島津斉興公のときに手を加えられ、「探勝園」という名前になりました。当時はとても素晴らしい庭園だったそうです。
現在は地元の人たちの憩いの場となっています。私が訪れたときも、地元の子どもたちや家族連れが遊びに来ていました。^^
そんな探勝園の見どころを3つご紹介します。^^
島津忠義(ただよし)像~見どころ①~
探勝園に入ってすぐの場所に、第29代島津家当主・忠義の像があります。
同じ園内にある父・久光と、お隣りの照国神社にある伯父・斉彬像は和服ですが、忠義公は西洋式の軍服を着用しています。
父・久光の遺言で、死ぬまで髷(まげ)を切らなかったそうです。
西洋式の軍服なのに、帽子の中は髷というミスマッチ。
島津忠義(1840-1897)は、薩摩藩最後の藩主。いわば、「鹿児島版ラストエンペラー」です。
江戸時代末期の1840年(天保11年)、忠義は島津久光の長男として生まれました。
斉彬の次に島津家当主(第29代)となり、父・久光の補佐を受けながら、薩摩藩の改革と陸海軍の強化に努めました。
主な業績としては、五代友厚などの使節団や留学生をイギリスに派遣して、紡績技師たちを異人館に招き、日本で最初の紡績工場を作ったことなどが挙げられます。
政治は西郷隆盛を頼りにしていました。西郷隆盛は乗馬が下手だったというエピソードがありますが、忠義はとても上手だったそうです。
なお、忠義は今上天皇(平成天皇)の曾祖父にあたります。
島津久光(ひさみつ)像~見どころ②~
薩摩藩最後の藩主・島津忠義の父はどのような人だったのでしょうか?
同じく探勝園に銅像として建っている島津久光をご紹介します。
後ろには城山(高さ107メートル)がそびえ、緑が青々と茂っています。
久光像の周囲には水が張っています。
圧倒的な存在感があります!
息子・忠義と違って、久光は和服を着ていますね。
島津久光は江戸時代後期の1817年(文化14年)に生まれました。
兄だった島津斉彬が病死した後は、久光の息子の忠義が島津家当主になり、久光は忠義を補佐しました。
島津久光・忠義の親子は、明治維新に大きく貢献しました。
その活躍は小松帯刀や大久保利通などの優秀な部下に支えられたものでしたが、久光と鹿児島の人気者・西郷隆盛は仲が悪かったそうです。
島津久光は廃刀令など急激な文明開化を推し進める明治政府に反対していて、髷(まげ)を斬らず、帯刀と和装をやめませんでした。
だから、軍服の忠義と違って、和装なんですね。
なお、鹿児島市玉里には、島津久光が晩年を過ごした島津家別邸「玉里邸」があります。
久光公の銅像をグルっと囲むように散策できる小道があります。足場はあまり良くないので気を付けてくださいね。
電信使用の地~見どころ③~
探勝園の片隅に「電信使用の地」の石碑が建っています。
島津家第28代当主・島津斉彬は、忠義の伯父であり、久光の兄にあたります。
斉彬は蘭学(西洋の学問)を研究し、探勝園と鶴丸城本丸の間(約600メートル)に電線を引き、日本で初めてのモールス信号による交信に成功しました。
モールス信号は、短い音「トン」と長い音「ツー」の音を組み合わせた信号で、有名なものは「SOS信号」などがあります。
島津斉彬は、現在の仙巌園(鹿児島市磯)で、反射炉(鉄を溶かす施設)などの開発を行い、日本の近代化に大きく貢献しました。
なお、島津斉彬は探勝園の隣りの照国神社に祭られています。
探勝園の観光情報
アクセス
- 車…JR鹿児島中央駅から約10分。専用駐車場はないので、照国神社のコインパーキングを利用しましょう。
- 市電…電停「天文館通」を下車し徒歩約10分。
地図
薩摩藩最後の藩主。
近くの観光スポット
照国神社
島津忠義の父・島津斉彬が祭られている神社。
鶴丸城
島津氏の居城。天璋院篤姫像もあります。