鹿児島市加治屋町にある大久保利通生い立ちの地の紹介です。
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大久保利通生い立ちの地
大久保利通は鹿児島市高麗町で生まれました。
しばらくして、甲突川を挟んで反対側の加治屋町に引っ越しました。
現在、大久保利通が育った場所には「大久保利通生い立ちの地」の石碑が建っています。
すぐとなりには「維新ふるさと館」があり、明治維新について学ぶことができます。
100メートルほど桜島の方角に歩くと、西郷隆盛生誕の地があります。
大久保利通は小さい頃から西郷隆盛などの郷中(下鍛冶屋町郷中)の仲間と、切磋琢磨して育ちました。
西郷隆盛とは実の兄弟以上に仲が良く、西郷隆盛はよく遊びに来ていたようです。
お由羅騒動(島津家の跡取り争い)では、父が喜界島に島流しされ、大久保利通自身も謹慎となり、貧乏どん底の暮らしを体験しました。
しかし、島津斉彬が薩摩の藩主となると、その才能を見出され活躍します。
島津斉彬が病死した後も、藩の実験を握った島津久光に信頼され、薩摩藩による討幕運動を支えました。
西郷隆盛は島津久光から嫌われ、沖永良部島に島流しされてしまいましたが、大久保利通の説得のおかげで鹿児島に戻ることができました。
新政府では征韓論をきっかけに西郷隆盛と対立するようになります。
西郷隆盛が1877年(明治10年)に西南戦争を起こすと京都で新政府軍の指揮をとりました。
潔白な性格で知られ、国の公共事業で資金が足りないときは、自分の私財を投じてまで行っていました。
プライベートでは、非常に子煩悩でやさしい父親であったと伝えられています。
牧野伸顕の誕生地
「大久保利通生い立ちの地」の石碑の横には、利通の息子・牧野伸顕(まきの のぶあき)の誕生地の石碑が建っています。
伸顕は、生後間もなく親戚・牧野家の養子となりましたが養父が戊辰戦争で亡くなったため、姓は牧野のまま大久保家で育ちました。
1871年(明治4年)に父・大久保利通に同行して、岩倉遣欧使節団の1メンバーとしてヨーロッパに渡りました。
文部大臣、内大臣、宮内大臣など政府の要職を務めた後、1949年(昭和24年)に亡くなりますが、遺産を残さなかった父・利通と同じく、ほとんど財産らしきものは残っていなかったと伝えられています。
大久保利通生い立ちの地の観光情報
アクセス
- 徒歩…JR鹿児島中央駅から徒歩約10分。
- レンタル自転車「かごりん」が便利です。
- 車…専用駐車場はないので、コインパーキングをご利用ください。
住所
鹿児島市加治屋町3−26
地図
内務卿・大久保利通
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