大久保利通銅像~西郷隆盛の親友・鹿児島の誇る明治維新の功労者~

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この記事は鹿児島地元人のララが書いています。

鹿児島といえば、西郷隆盛と大久保利通を連想する人も多いのではないでしょうか?

大久保利通は西郷隆盛と同じく明治維新の功労者です。

鹿児島中央駅から歩いてすぐの場所に建っていますので、歴史に関心のある方はぜひ訪問してみてください。

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大久保利通の銅像

大久保利通の銅像の動画です。鹿児島中央駅から徒歩5分の場所(鹿児島市高見橋)にあります。

 

激動の人生

西郷隆盛と同じく、大久保利通は明治維新の最大の功労者の一人です。

木戸孝允(きどたかよし)とあわせて3人で「維新三傑」と呼ばれます。

 

西郷隆盛と大久保利通は子どものころからの親友でした。

二人とも下級武士の生まれでしたが、第28代島津家当主・斉彬が才能を見抜き、二人を採用しました。

彼らは薩摩藩を強くしただけではなく、明治維新を通じて日本を強くしました。

 

しかし、後になると、二人は新政府内では対立することが多くなります。

大久保利通は岩倉使節団の一因としてヨーロッパに派遣され、イギリスなどの先進的な国の状況を目の当たりにした結果、日本を早く強くすることが必要だと考えます。

国の財政収入を安定させるために、当時まで年貢でとっていた税金を、個人の土地の価格に応じて徴収するようにしました(地租改正)。

また、フランスから技師を招き、生糸の大量生産にとりくみ、海外への輸出を奨励しました(殖産興業の発展)。

さらには、20歳以上の全ての男子に3年間兵役に就く制度も定めました(徴兵制)。

 

徴兵制は江戸時代まで武士だった人々(士族)から仕事とプライドを奪いました。

士族たちの新政府に対する不満は、やがて西郷隆盛が不満士族を率いた西南戦争(1877年)という形で表れてしまいます!

 

大久保利通はこれに軍隊を送って鎮圧し、敗れた西郷隆盛は亡くなります。

昔の親友を殺さなくてはならなかった大久保の心境は、どのようなものだったのでしょうか・・・。

西南戦争の翌年1878年、大久保利通も不満を募らせた士族によって暗殺されてしまいました。

 

座右の銘「為政清明」(いせいせいめい)

為政清明の意味ですが、「政治を を行うには、心も態度も清く明るくなければならない」となっています。

大久保利通は初代内務卿という高い地位にありながら、性格は潔癖で、プライベートではかなり質素な生活をしていたそうです。

 

大久保利通は西南戦争の翌年(1878年)に士族から暗殺されたとき、持っていた財産は「8千円」の借金だけだったそうです。

大きなお金がかかる政策を実行するときに、政府が十分なお金を用意できないときは、大久保利通は自分のお金を投資していたようです。

政策に私財を投じる政治家は、今の日本ではなかなかいないのではないでしょうか?

そう考えると、西郷隆盛と同じく、大久保利通も素晴らしい人格の持ち主ですね!

 

感想

雨が降っているせいか、彼の銅像は泣いているようにも見えました。

大久保利通は、死後、ふるさと鹿児島では「西郷さんの敵」という考えも多く、西郷隆盛ほど人気がありませんでしたが、没後100年目にして、ようやくこの地に大久保利通の銅像が立ちました。

彼も西郷隆盛と同じく、新しい日本のために、命をかけた1人なのです。

 

道路を挟んで南側には甲突川沿いが「維新ロード」という歴史散策ができる小道があります。

また、維新ロード付近には、鹿児島の歴史を学べる「維新ふるさと館」「西郷隆盛生誕の地」などがありますよ!

 

大久保利通の銅像の情報

アクセス

  • JR鹿児島中央駅から徒歩5分
  • 市電「高見橋」下車、徒歩1分。
  • 車で来る場合は駐車場がないので、近くのコインパーキングを利用。

住所

鹿児島市西千石町1番

地図

明治維新の功労者

 

近くの観光スポット

大久保利通生誕の地

車が忙しく行き交う道路の片隅に小さな石碑を残すのみです。

天文館観光マップ

 

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