鹿児島市吉野にある別府晋介の誕生地の紹介です。
別府晋介は西郷隆盛が城山で最後を迎えるとき、西郷隆盛を介錯したことで知られています。
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別府晋介誕生地を訪問
別府晋介の誕生地は、鹿児島市吉野の住宅街のなかにあります。
観光客用の駐車場はないのでご注意ください。
細い道を歩いて下っていきます。たまたま住民の方の車が通っていましたが小さな車1台がやっと通れるような幅です。
しばらく進むと看板が見えてきました!
看板の下には注意書きがありました。
別府晋介の誕生地は、現在は私有地なので午後6時以降の立ち入りはできません。訪問する際は時間にご注意ください。
この階段の先が誕生地です。
生誕地跡を示す石碑が建っています。すぐ後ろは民家です。
長方形の広場はおどろくほどの小ささです。このスペースに家が建っていたのでしょうか?
傍らに建っているツタがたくさん絡まった木が、長い時の流れを感じさせます。
石碑には「別府晋介君誕生地」と刻まれています。
1847年別府晋介はこの場所で生まれました。
すぐ近所には西南戦争に同じく従軍した桐野利秋(中村半次郎)の誕生地もあります。
血縁上はいとこだったこともあり、7歳年上の桐野利秋とは実の兄弟のように仲が良かったと伝えられています。
1873年(明治5年)、征韓論が起こると、西郷隆盛の命令で韓国のプサンに向かい、2か月ほど偵察活動をしました。
ところが、翌年に征韓論に敗れた西郷隆盛が辞職して鹿児島に帰ると、すぐさま陸軍少佐の地位を捨てて鹿児島に帰りました。
このとき桐野利秋も陸軍少将を辞職して鹿児島に帰ります。
自らの地位をなげうってまで西郷隆盛に従ったことを考えると、西郷隆盛の人望の厚さがどれだけ偉大なものだったか考えさせられます。
1877年(明治10年)に出兵することが決定すると、別府晋介は先発隊を指揮して熊本に北上します。
同年2月、彼の軍隊は現在の熊本市で熊本鎮台の偵察隊と衝突しました。これが西南戦争の最初の戦闘となりました。
その後、各地を転戦し奮戦しましたが、西郷隆盛の率いる薩軍は、最新兵器と圧倒的な物量に勝る官軍には敵いませんでした。
別府晋介自身も深手を負い、とうとう薩軍は城山(鹿児島市)に追い詰められます。
9月24日、西郷隆盛率いる薩軍は城山を包囲する官軍に最後の突撃を行います。
味方は次々と倒れ、西郷隆盛自身も股と腹を撃たれます。
西郷隆盛は別府晋介に、「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」
そう言うと、部下がひざまづいて見守る中、遥か東にある皇居に向かって頭を下げて拝みました。
別府晋介は「御免なったもし(お許しください)!」と叫び、西郷隆盛の首を切り落としました。
尊敬した人の命を絶つ心境は、どのようなものだったのでしょうか。
この西郷隆盛が最後を迎えた場所には、今でも石碑が建っています。
別府晋介の性格は豪気で潔く、部下たちの信頼も厚かったと伝えられています。
陸軍少佐だった頃に稼いだ給料を部下たちに平等に分け与えたというエピソードもあります。
西郷隆盛が死んだ瞬間に西南戦争は終わったにもかかわらず、自分の近くを離れようとしない部下たちに、
「汝等尚未だ去らざるや(お前たちはまだ去らないのか)」と叱りつけます。
別府晋介自身は討死にを覚悟していたものの、部下を道連れにすることを嫌ったためでした。
別府晋介は銃弾が飛び交う中、自刃して最後を迎えました。31歳という若さでした。
西郷隆盛を語る上で、彼を支えた別府晋介の存在は欠かせません。
NHK大河ドラマ「西郷どん」をより深く理解し楽しむためには、ぜひ訪問しておきたい史跡ですね。
別府晋介誕生地の観光情報
アクセス
鹿児島中央駅から車で25分。駐車場はありません。
時間
私有地につき午後6時まで訪問可能。
住所
鹿児島市吉野町実方
地図
別府晋介が誕生した場所
近くのランチスポット
仏跳麺
鹿児島ラーメン王決定戦にも出場したことのある美味しいラーメン屋さん。
ロビンフッド
ここのコーヒーサンドは大人気です!
近くの観光スポット
駄馬落の跡
西郷隆盛が荷物を運搬する馬を落としてしまったというエピソードのある場所です。
関吉の疎水溝
日本の近代化を支えた世界文化遺産です。