鹿児島市城山の中央公園の片隅に、かつて薩摩藩の重要な教育機関だった「造士館」跡の石碑が建っています。
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造士館跡の石碑
鹿児島市民の憩いの広場である中央公園の隅に、ひっそりとたたずんでいます。
造士館とは?
薩摩藩は本土の最南端にあり、武士の教育が十分ではありませんでした。
薩摩藩はどの藩よりも武士の数が多かったという点から考えても、武士の教育はとても重要な課題でした。
島津家第25代当主・重豪は、儒学(朱子学)による教育で武士たちの士気を高めようと考えて、1773年(安永2年)に、造士館(学校)と演武館(武道場)を作りました。
造士館は、江戸にあった幕府の学校「昌平坂学問所」を基につくられました。
演武館では、剣、弓、槍、馬、銃などの稽古が行われたようです。
島津重豪は、医学について非常に関心が強い藩主でした。
造士館の南となりには、医学を研究するための医学院があり、薬園を吉野、佐多(伊座敷)、山川に開きました。
下の写真は南大隅町佐多伊座敷にある「佐多旧薬園」の写真です。
1779年、島津重豪は鹿児島城(鶴丸城)の東南に「明時館」を作り、天文学を研究させました。
これが現在の鹿児島市で最大の繁華街・天文館の由来になっています。
造士館の発展
島津重豪の曾孫(ひまご)・島津斉彬が藩主になると、造士館はさらに発展を遂げます。
従来の儒教の教育と武芸の教育に加え、西洋式の実学の学習が導入されました。
西欧列強が東アジアを次々と侵略している時代だったので、日本の危機に対応できる人材を育てることを目標としていました。
仙巌園では西洋科学を研究し、大砲などを製造する集成館を建設しました。
照国神社の隣にある探勝園では、モールス信号による交信も行いました。
もともと重豪や斉彬は西洋文化に強い関心を示していました。
その関心が多額の出費を招いたことから、島津斉彬は、父の島津斉興や重臣の調所広郷の反感を買ってしまっていたようです。
しかし、造士館が生み出した研究成果と生徒たち(西郷隆盛など)が近代日本に与えた影響は計り知れないほど大きなものです。
西郷どんの母校
あの西郷隆盛も造士館に通っていました!
11歳のとき、造士館からの帰り道の途中、子ども同士の争いで腕に負傷をしてしまいました。
その結果、西郷隆盛は剣の道をあきらめ、武芸に精進したというエピソードがあります。
他にも、造士館は、大久保利通、東郷平八郎、川村純義、大山巌など有名な人たちを輩出しました。
造士館跡の観光情報
住所
鹿児島市山下町4
地図
薩摩藩の教育機関
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近くの観光スポット
西郷隆盛銅像
造士館から生まれた薩摩の英雄です。
照国神社
下級武士にすぎなかった西郷隆盛を大抜擢した島津斉彬を祭る神社です。
小松帯刀銅像
明治維新に貢献した薩摩の英雄がここにも!
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