鹿児島市喜入の「喜入旧麓(きいれもとふもと)地区」のご紹介です。
ここには平安時代から続く昔の街並みの面影が残っています。
歴史に関心のあるかたは、ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
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アクセス&駐車場情報
JR喜入駅から歩いて約10分かかります。
車でお越しの場合は、喜入旧麓の入り口のふれあい広場に駐車して散策することになります。
ふれあい広場のベンチに、『旧麓れきしフットパスマップ』というパンフレットが入った箱が置かれてあったので、
このパンフレットを見ながら散策することにしました♪
ふれあい広場入口には、給黎城跡の説明板が建っていました。
この辺り一帯は、戦いの場所だったんですね!
では、ちょっと歩いてみましょうか。
約1.5キロの冒険の始まりです♪
喜入旧麓とは?
平安時代の終わり頃の1180年代、伊作有道という人がこの地区に住み,姓を給黎(きいれ)と名乗ったと伝えられています。
室町時代の応永18年(1411年)伊集院頼久の領地となりましたが,4年後の同21年(1414年)島津家第8代当主・島津久豊が給黎城を攻めて奪い取り、勝利を祝って「給黎」を「喜入」に改めました。
その後,蒲生氏,喜入氏(島津家の一族),肝付氏と領主が次々と交代し,承応2年(1653年)に肝付兼屋が居館を他の場所に移すまで400年以上もの間,政治の中心地だったと考えられています。
なお、肝付氏の子孫には幕末で活躍した薩摩藩家老「小松帯刀」がいますよ。
喜入旧麓を散策
地区内には,湧水を利用した水路が道路沿いを流れ、武家門や石塀が連なっています。
電柱が見えてしまうのが少し風情を欠きますが、この小川で洗濯するための踏み台も残っていて、当時の人々の生活がしのばれます。
牧瀬家武家門
喜入麓地区で唯一残る建築物(武家門)です。
とても立派な作りですね。
背後に見える山は給黎城跡です。一見するとただの山ですが、江戸時代初期までは政治の中心となっていた場所です。
島津氏がこの給黎城を手に入れたとき、戦勝を祝って「給黎」を改めて「喜入」という地名にしました。
できれば、門だけではなくて、知覧武家屋敷や入来麓武家屋敷のように武家屋敷が残っていたら、もっと昔の暮らしを感じれたでしょうね。
香梅ヶ渕(こべがぶち)と伝承
喜入旧麓の通りを奥に進んでいくと、香梅ヶ渕という場所があります。
「八幡川」という川の上流で、透き通るようなエメラルドグリーンの水がゆったりと流れ、樹木の隙間から淡く美しい陽光が水面に差し込み神秘的な雰囲気を醸し出しています。
この場所にはある言い伝えが残っています。
昔、この地の領主は香梅という美しい侍女をとてもかわいがっていたそうです。
あるとき、領主がこの場所で花見の宴を開いたとき、香梅の帯が擦れて音が鳴りました。
いつも日頃から香梅をねたんでいた女性たちが「香梅がオナラをした」とからかいました。
家来の一人が「杯を川に投げて下流に流れれば身の潔白が証明される」と言い、香梅はその通りにしました。
普通に考えれば、川の水は下流に流れていくはずです。
ところが。杯は上流に流れたではありませんか!
香梅は恥ずかしさのあまり川に身を投げて亡くなってしまったそうです。
人々は香梅をかわいそうに思い、この地を香梅ヶ渕と呼ぶようになりました・・・。
今の時代でこそオナラの1回や2回くらい何でもないでしょうが、当時はオナラは死にたくなるほど恥ずかしいことだったんですね。
よくよく香梅ヶ渕の水の流れを見てみると、「川」というより「池」のように水がゆったりと流れていて、場所によっては流れの向きが複雑です。
できれば香梅さんは身を投げる前に少し思いとどまり、杯が下流に流れるのを待ってもらいたかったです。
香梅ヶ渕は、とても花見を開くような華やかな場所とは思えないくらい、ひっそりと静まり、水の流れる音だけが聞こえます。
不安定に流れる水面が、まるで香梅の戸惑いと悲しみを表しているように見えました。
(隣りの人がオナラをしても、聞かないふりをしよう!)
なお、香梅渕の近くには、江戸時代270年に渡って喜入を治めた領主たちが眠る肝付家歴代墓地があります。
明治維新で活躍した小松帯刀の父・11代当主肝付兼善(きもつき かねよし)も、こちらで眠っています。
南方神社
香梅ヶ淵から山のほうに坂を上っていくと、大木が立ち並ぶ神秘的なパワースポットがあります。
お時間があれば、ぜひこの神社も参拝してみてください。
喜入旧麓の観光情報
入場料
無料
住所
鹿児島市喜入町
地図
中世の趣(おもむき)を感じる街並みが残っています。
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