西郷南洲翁宅地跡(共研公園)まさに激動の人生!@鹿児島市上之園町

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この記事は鹿児島地元人のララが書いています。

西郷隆盛は29歳のとき、鹿児島市加治屋町から上之園町に引っ越してきました。

現在の共研公園の入口の一角に、西郷南洲翁宅地跡碑が建っています。

西郷隆盛に関心のある方はぜひ訪れてみてはいかがでしょうか?

 

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西郷南洲翁宅地跡

現在では共研公園という鹿児島市民の憩いの広場になっています。

西郷南洲翁宅地跡

中央駅から徒歩10分の場所にあるので、

週末は多くの子ども連れでにぎわっています。

西郷南洲翁宅地跡 西郷南洲翁宅地跡

 

西郷南洲翁宅地での西郷隆盛の暮らし

西郷隆盛は49年の生涯の内、3回の引っ越しをしています(島流しを除く)。生誕地の下加治屋町からこの場所の一角に移り住み、約14年も住んでいました。

その頃、西郷隆盛はどのような人生を送っていたのでしょうか?

 

加治屋町からの引っ越し

1852年(嘉永5年)、西郷隆盛は父母の勧めで最初の妻・須賀と結婚します。

なお、西郷隆盛は生涯のうち全部で3人の女性と結婚しています。

しかし、結婚の喜びも束の間、7月に祖父・遊山、9月に父・吉兵衛、11月に母・マサが次々に亡くなります。

西郷隆盛は一人で一家を支えなければならなくなり、西郷家の暮らしは更に貧しくなりました。

 

借金の返済が難しくなり、西郷隆盛は以前住んでいた下鍛冶屋町の住宅を売り払いました。

1855年(安政2年)12月、西郷隆盛が29歳のとき、西郷家はこの住居(鹿児島市上之園町)に引っ越してきました。

 

仕事で大忙し&妻と離婚

ここに居を構えていた時期は、西郷隆盛の人生にとって激動そのものでした。

1854年(安政5年)西郷隆盛は島津斉彬の参勤交代に同行し、江戸に向かいます。

 

島津斉彬は西郷隆盛の才能を認め、郡方書役助(年貢を徴収する事務の補佐)から御庭方役(庭の手入れをしながら藩主を近くでサポートする仕事)に任命しました。

島津斉彬のすぐ近くで働ける身分になり大出世でした。

 

しかし、11月には西郷家の貧しさを見かねて、妻の実家だった伊集院家が須賀を引き取ってしまいました。

その後は、長男だった西郷隆盛の代わりに、次男の吉二郎が西郷家の面倒をみることになりました。

 

島津斉彬の手足として活躍!

島津斉彬は養女・篤姫を徳川13代将軍・徳川家定に嫁がせ、徳川家への影響を強めようと考えていました。

島津斉彬の目的は、日本の富国強兵を図り、中国や韓国と協力しつつ、アジアに進出する欧米列強に対抗することで、西郷隆盛は島津斉彬の手足となって活躍しました。

井伊直弼(出典 wikipedia)

 

島津斉彬は一橋慶喜(後の徳川慶喜)を14代将軍にしようとしていました。

しかし、1858年(安政5年)5月、井伊直弼が大老になると、井伊直弼は一橋慶喜ではなく、徳川慶福(後の家茂)を次の将軍に決定しました。

島津斉彬はこれに抗議するために軍隊を率いて京都に行くことを考えますが、出発前の軍事訓練で体調を壊し、急死しました。

西郷隆盛は主君の死を悲しんで殉死しようとしますが、僧・月照上人に説得され、斉彬の遺志を継ぐことを決意しました。

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自殺未遂

井伊直弼は安政の大獄で、一橋慶喜を将軍にしようとしていた人々を弾圧しました。

西郷隆盛が近衛家から保護を依頼されていた月照上人も弾圧の対象でした。

月照上人(出典wikipedia)

 

西郷隆盛は月照上人を連れて故郷の薩摩藩に逃げましたが、薩摩藩は月照上人をかくまうと幕府とトラブルが起こると考え、日向国(宮崎県)に追放しました。

西郷隆盛と月照上人は日向の国に向かう船の上で入水自殺を図りますが、西郷隆盛だけが助かりました。

鹿児島市吉野に西郷隆盛が蘇生した場所の史跡があります。

Discovery! "House Where Mr.Saigo Takamori Recovered" - Important Historical Site for Japanese History!
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西郷隆盛は自分だけがおめおめと生き残ったことを恥じ、以後は自分がこのとき死んだものと考えて、自分の写真を撮影されることを一切拒んだとも言われています。

 

二度にわたる島流し

薩摩藩は西郷隆盛が死んだものとして、徳川幕府から西郷隆盛を隠すため、西郷隆盛を奄美大島へ送りました。

西郷隆盛は奄美大島で愛加那と結婚し、人生で二度目の結婚をしました。

愛加那(出典wikipedia)

 

1862年(文久2年)2月、西郷隆盛は鹿児島に戻りました。

島津斉彬の跡に薩摩藩の指導者となった島津久光は、兄・斉彬の遺志を継ぎ、公武合体運動(朝廷・幕府・諸藩の協力を進める運動)を行うため、京都に行くことを決意します。

西郷隆盛は村田新八と共に先発隊として山口県下関で待機するよう命じられましたが、京都と大阪で倒幕推進派の志士たちが終結しているというウワサを聞きつけ、無断で京都に向かい倒幕派を抑えようとしました。

これを知った島津久光は激怒し、西郷隆盛を沖永良部島に、村田新八を喜界島に流罪にしました。

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起死回生

大久保利通や小松帯刀の努力のおかげで、西郷隆盛は薩摩藩に復帰します。

その後は、薩長同盟(1866年)や江戸無血開城(1868年)など数々の偉業を成し遂げました。

また、この屋敷では、弟の吉二郎や従道の結婚式が行われ、妹も嫁ぎ、西郷隆盛自身も1865年(慶応元年)にイトと結婚しました。

 

西郷隆盛は1869年(明治2年)武屋敷に引っ越しました。

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松永清之丞誕生地の石碑

共研公園内に、松永清之丞誕生地の石碑が建っています。

松永清之丞誕生地の石碑

松永清之丞は戊辰戦争で活躍した薩摩藩士です。

西南戦争(1877年)では村田新八率いる二番大隊の小隊長として、明治政府軍と戦いましたが、最大の激戦地と言われる「田原坂の戦い」で戦死しました。

 

西郷南洲翁宅地跡碑の観光情報

アクセス

鹿児島中央駅から徒歩5分。

住所

鹿児島市中央町13−3

地図

西郷隆盛の住居跡

 

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