西郷隆盛の私学校跡~西南戦争の激戦地!生々しい銃弾の跡~鹿児島市城山

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この記事は鹿児島地元人のララが書いています。

私学校は西郷隆盛が士族のために設立した学校です。

今でも西南戦争の弾痕が石垣に深く刻まれていて、戦闘の激しさを伝えています。

歴史に関心のある方は訪問をおすすめします!

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私学校跡

私学校は1874年(明治7年)6月に設立された鹿児島士族の学校です。

現在の「鹿児島医療センター」の場所に建っていました。

私学校跡記念碑

 

私学校の歴史

征韓論、鹿児島へ帰郷

西郷隆盛は明治維新で大活躍し、新しい日本を作るために貢献しました。

しかし、1873年(明治6年)、征韓論の問題が起こります。

 

江戸時代まで朝鮮は江戸幕府と国交がありましたが、明治になってから鎖国していました。

明治政府は開国を要求しましたが、朝鮮は清(当時の中国)とのみ国交するとして開国しませんでした。

朝鮮国内では、日本に反発する声も大きくなり、朝鮮にいる日本人たちが危機にさらされるようになりました。

 

朝鮮への使節派遣を巡って日本政府の内部で意見が大きく食い違います。

板垣退助などの強硬派は朝鮮に兵を派遣することを主張しますが、西郷隆盛は自らが使節となって朝鮮へ交渉に行くことを主張します。

 

西郷隆盛は第一次長州征伐のときも自ら山口県の岩国に乗り込んだり、江戸城無血開城のときも自ら勝海舟と直接対談をして成功を収めてきました。

西郷隆盛は「誠意をもって接すれば朝鮮も説得できる」と考えたのでしょう。

最終的には日本政府は西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣することでまとまり、明治天皇の許可も得ました。

 

しかし、大久保利通たちが反対をし、使節団の派遣は無期延期となってしまいます。

大久保利通の決断の背景には、朝鮮に西郷隆盛を派遣すると、大切な親友が殺されてしまうという心配もあったのだと思います。

 

西郷隆盛は自分から辞表を提出し、鹿児島へ帰りましたました。

このとき、西郷隆盛を慕って、桐野利秋、篠原国幹、別府晋介など多くの元薩摩藩士が一斉に鹿児島に帰ります。

一説によると、その人数は300人にも及んだと伝えられます。

 

私学校設立へ

鹿児島に帰郷した大勢の士族たちも仕事がなく、徴兵令や廃刀令などによって特権も奪われ、新政府への不満を募らせていきました。

そこで、西郷隆盛は士族を指導・統率するために、1874年6月、旧鹿児島城(鶴丸城)の厩(うまや)跡に私学校を設立しました。

 

私学校は、建前としては「若者たちを将来国に役立つ人物に育てる」ことを目的としていましたが、

本当の目的は、新政府に不満を持つ士族たちを組織でまとめて不満を抑えることだったと考えられます。

下の画像は私学校の正門跡です。

私学校の正門跡

 

私学校は、篠原国幹が監督する銃隊学校と、村田新八が監督する砲隊学校の二つに分かれていました。

他にも現在の照国神社の南側(現在の探勝園)に賞典学校(別名「幼年学校」)、吉野寺山に吉野開墾社がありました。

銃術や砲術のほかに、古代中国の歴史注釈書である「春秋左氏伝」や中国の兵書である「孫子」なども学びました。

 

西郷隆盛は自分の私学校に対する思いを、自ら筆を執って「私学校網領」として以下のように示しました。

  • 共に一致し協力すること。
  • 義を重んずること。
  • 学問の本質として尊王(天皇陛下を敬う)心を持ち、人民への憐みの気持ちをもつこと。
  • 危機に当たった場合は、その義務を果たすこと。

また、西郷隆盛は戊辰戦争で亡くなった戦死者の霊を祭る文を書き、それを掲げさせました。

 

鹿児島県内には136校もの私学校の分校が作られたようです。

西郷隆盛自身は私学校において特に役職には就かず、運営や指導には関わりませんでした。

未来の日本に役立つ人材を育てるという思想のもとに始まった私学校ですが、私学校は新政府から見て危険な存在でした。

 

西南戦争の始まり

1877年(明治10年)1月29日、政府の役人が夜中にこっそり弾薬庫から武器を持ち出し、大阪に運びだそうとします。

自分たちの武器を奪われまいと、私学校の生徒が政府の火薬庫(鹿児島市草牟田)を襲撃しました。

西郷隆盛は襲撃の日には根占で狩りを楽しんでしましたが、2月2日に襲撃の知らせを聞いて「ちょっしもた(しまった)!」と言ったそうです。

西郷隆盛逗留宿所~西南戦争勃発前の最後の保養地~鹿児島県南大隅町根占
西南戦争が勃発する直前に西郷隆盛が宿泊していた民家が鹿児島県南大隅町根占にあります。

 

新政府の川路利良は鹿児島に20人のスパイを送り込み、西郷隆盛を「しさつ」するよう命令します。

それが単なる「視察」だったのか。それとも暗殺という意味の「刺殺」だったのか。今となっては不明です。

2月3日、これを私学校の生徒が捕らえて尋問を行い、スパイは西郷隆盛を暗殺しにきたのだと解釈します。

 

翌4日、西郷隆盛は根占から鹿児島に戻り、私学校にて今後の方針が検討された結果、総出兵が決定されました。

西郷隆盛は「おはんらに預けた命」と言って総出兵に同意しました。

2月14日、60年ぶりの大雪の中、西郷隆盛の率いる軍隊は熊本城を目指して私学校を出発し、西南戦争(1877年)が勃発しました。

 

高い理想を抱えた私学校が、わずか4年で廃校になったのは残念です。

 

西南戦争の銃弾跡

私学校の石垣には、西南戦争の銃弾跡が今でも数多く残り、戦争の激しさを物語っています。

鶴丸城側(西側)の銃弾跡

西南戦争の銃弾跡

私学校の銃弾跡

 

国道10号線側(南側)の銃弾跡

私学校の銃弾跡

pb120118

 

銃弾跡が最も多かった石垣は、交差点「城山入口」の辺りでした。(下の画像)

私学校の銃弾跡

西南戦争銃弾跡地

 

私学校の観光情報

アクセス

バス…カゴシマシティビューに乗り「薩摩義士碑」前にて下車し、徒歩すぐ。

住所

鹿児島市城山8

地図

西郷隆盛が将来国家の役立つ人材を育てることを目的として設立した学校。

 

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